藤沢周平

風は強いだけでなく、ぞっとするほどつめたかった。振りむいて空をみたさよは、思わず恐怖に襲われて声を立てるところだった。さよがこれから帰って行く新大橋の向う岸の町町は、日を浴びて白くかがやいているのに、あたけの北にひろがる町町の上の空は、見たこともない厚い鉛いろの雲に埋めつくされていた。そしてその一段低いところを、薄い黒雲が右に左に矢のように走り抜けているのだった。 あの橋さえわたってしまえば、と必死に走りながらさよは思った。だが橋にたどりつく一歩手前で、日が雲に隠れてあたりは夕方のように暗くなり、つづいて雷が光った。ほんの少し間を置いてからさよのまわりが一斉に固い音を立てはじめた。そしてそれはすぐに、耳がわんと鳴るほどの雨音をともなう豪雨になって、さよだけでない橋の上のひとびとに襲いかかってきた。 その雨の中に紫いろの光がひっきりなしに光り、雷鳴はずしずしと頭の上の空をゆるがした。「落ちたよ」と誰かが叫ぶ声がして、さよはおそろしさに足が竦むようだった。するとそのとき、びしょ濡れの身体に後ろから傘をさしかけた者がいた。